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歴代名人2
7世名人:伊藤宗看はその実力で三家をとりまとめ、将棋界は隆盛の時を迎える。将棋所が独立後も常に囲碁の後塵を拝してきたことを不服とした宗看は碁と将棋の序列を入れ替えるよう働きかけた(席次争い)が、囲碁界の後ろにも有力者が多数いたため失敗に終わる。
九世名人:宗英の頃に将棋は町民の文化として花開くが、十九世紀に入るころには江戸幕府の衰退によるスポンサーの減少も手伝って将棋界は実力者・後継者が不足するようになり、十世以降名人位は長く不在となる。しかし九世名人:宗英の撒いた種は全国各地で芽吹き、在野では逆に実力者が続出する。中でも最も有名なのが天野宗歩である。
大橋家の門人となった宗歩は破竹の勢いで勝ち続け、遂には御城将棋に登場する。もし勝っていれば家元以外からの初めての名人となっていたかもしれないが宗歩は惜敗。元々素行の良くなかった宗歩は44歳の若さでこの世を去る。
天野宗歩の死後、彼の薫陶を受けた小野五平と、家元の名を守ろうとする伊藤宗印のあいだで名人位をかけた争いが起こる。すでに時代は明治となっており、新聞社などの新たなパトロンを得た小野が優位であったが、結局は小野が譲る形で新名人が誕生した。
三代伊藤宗看
※画像はイメージです、実際の七世名人とは何の関係もありません。
18歳にして伊藤家当主となり、三代大橋宗与の死により1728年(享保13)、23歳という最年少の若さで名人を襲名する。その圧倒的な強さから「鬼宗看」と呼ばれた。 はじめのうちは囲碁界との激しい政治闘争(※席次争い)を行っていたが後年は弟の伊藤看寿と共に詰め将棋の制作に力を入れるようになる。彼ら兄弟の残した作品集「将棋無双」と「将棋図巧」は合わせて”詰むや詰まざるや”と呼ばれ詰め将棋の最高傑作と言われている。彼の死後、名人位は20年以上のあいだ空白となる。
九代大橋宗桂
※画像はイメージです、実際の八世名人とは何の関係もありません。
七世:宗看の死後27年にわたり空位となっていた名人位を1789年(寛政1)に襲名。 長期間の空白ができた理由は三家の政治的な思惑の絡んだ闘争に加え、宗桂自身が献上する作品集の作成に力を入れすぎたためと言われている。
六代大橋宗英
※画像はイメージです、実際の九世名人とは何の関係もありません。
1799年(寛政11)名人襲名。歴代名人の中でも最強と言われ、「鬼宗英」「実力15段」と謳われる。「守りを固める」などの負けにくい将棋を指すという戦術、飛車先交換の有利性など大局観の革命をもたらした人物でもある事から「近代将棋の祖」とも評されている。 また当時は門外不出とされていた定跡や研究手順、さらには自身の棋譜を書籍として出版。これにより全国のアマチュアのレベルが急上昇することになる。一方でそれまで続いていた将軍への献上図式を行わず、彼以降の名人も作品を献上することはなくなった。 (※谷川十七世名人が平成24年に自身の作品集「月下推敲」を奉納。二百数十年ぶりの行事復活となった) 宗与が献上しなかった理由は、一説には宗看・看寿兄弟の「無双・図巧」を超えるものが作れなかったためと言われている。
六代伊藤宗看
※画像はイメージです、実際の十世名人とは何の関係もありません。
江戸時代最後の名人。「荒指しの宗看」と謳われたほどの豪快な攻めを得意とし、近代将棋に通ずる数多くの新手を開発した。3人の息子を優秀な将棋指しに育て上げる程の名伯楽であったが、病気や自殺等で後継者には恵まれず、またスポンサーであった幕府の衰退も手伝って彼の死後30余年にわたり名人位は空位となってしまった。
八代伊藤宗印
※画像はイメージです、実際の十一世名人とは何の関係もありません。
1879年(明治12)、35年ぶりとなる名人を襲名。しかし関西で影響力を持っていた小野五平との溝は埋まらず、将棋界はいまだ分裂状態であった。家元出身としては彼が最後の名人である。
小野五平
※画像はイメージです、実際の十二世名人とは何の関係もありません。
十一世:宗印の死後、パトロン、有力者の推挙によって1900年(明治33)、名人を襲名。彼が91歳という長寿で亡くなったため、次代の名人を約束されていた関根金次郎は全盛期を過ぎてしまい、これが実力制名人への転換を決意させたと言われている。また小野は日本チェス界の草分け的存在でもある。
関根金次郎
※画像はイメージです、実際の十三世名人とは何の関係もありません。
十一世名人:伊藤宗印の弟子。小野五平に名人を譲ったあと全国武者修行の旅に出る。その道中大阪で出会った阪田三吉とは後に名人を争うライバル関係となるが、最終的に関根が勝利し1921年(大正10)名人を襲名する。
1924年(大正13)、東京の専門棋士各派をまとめて「東京将棋連盟」(現在の日本将棋連盟)を結成。自らは名誉会長となる。襲名時すでに盛りを過ぎていた関根は1937年(昭和12)70歳をもって名人位を退くことを宣言。これにより実力制の名人戦がスタートする。
「見目麗しい美男子でたいへん女性にモテた」
「武術家の一面ももっており無念流の使い手だった」
「武者修行中、何度か生き倒れかけている」
など、エピソードには事欠かない人物である。