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歴代名人1
歴代名人1
江戸時代初期、徳川家康は囲碁と将棋を愛好し、囲碁・将棋の名手達を江戸に集め俸禄を支給するようになる。始めは「碁将棋所」と呼ばれ囲碁の本因坊算砂がこれをとりまとめた。(当時の棋士は碁も将棋も両方やる者が多かった)西暦1612(慶長17)年、大橋宗桂が算砂に勝ち「将棋所」として独立を果たす。この時より宗桂は将棋所の初代名人を名乗る。現代ではこの年を名人創設の年としている。 ※幕府より俸禄を頂いてはいたが武家のように帯刀を許されていたわけではなく、あくまで町人・芸人の延長にある地位だったと思われる。
初代大橋宗桂
※画像はイメージです、実際の一世名人とは何の関係もありません。
織田信長より桂馬使いが巧みなことを褒められ、宗桂と名乗るようになったといわれる(※諸説ある)。1612年、将棋所の独立を果たし一世名人を名乗る。また現存する最古の棋譜はこの宗桂と本因坊算砂との一局である。
二代大橋宗古
※画像はイメージです、実際の二世名人とは何の関係もありません。
宗桂の実子で、1634年(寛永11)に亡くなった父の後を継ぐ。彼の襲名により名人の世襲が始まる。誕生したばかりの将棋所の二代目に対して囲碁界からは次々に刺客が差し向けられたため、世襲による実力の低下を恐れた宗古は自分の弟を独立させ(大橋分家)、娘婿にも家を興させる(伊藤家)。これにより 「大橋家、大橋分家、伊藤家の三家を競わせ、その中で最も強い者が名人となる」 という家元制度の基礎が出来あがった。 また千日手や打ち歩詰め、行き場のない駒打ちの禁止や二歩など、現代まで続く将棋の基本ルールを完成させた。
初代伊藤宗看
※画像はイメージです、実際の三世名人とは何の関係もありません。
大橋宗古の後押しにより18歳の若さで新家元、伊藤家を興す。将棋所の発展を警戒した囲碁界から次々と刺客が送られてくるが、年老いた宗古に代わり勝負を受けてたった宗看はこれにことごとく勝利し、伊藤家と将棋所の地位を確実なものとする。 実績として詰め将棋の際の手余りの禁止(問題開始時点で持っている持ち駒は全て使い切らなければならない)を考案。 また振り駒を行った元祖とも言われている。
五代大橋宗桂
※画像はイメージです、実際の四世名人とは何の関係もありません。
三世名人:伊藤宗看の実子ながら、跡取りがなく断絶状態だった大橋家へ養子に出され、十分に実力がついたと認められて1691年(元禄4)名人を襲名。尚、存命中に名人位を譲ったのは江戸時代では三世:宗看のみである。
二代伊藤宗印
※画像はイメージです、実際の五世名人とは何の関係もありません。
三世名人:伊藤宗看の養子。1713年(正徳3)名人襲名。襲名時は60歳前後であったと推測されている。彼の次代の名人を巡って伊藤家と大橋家の間で激闘が繰り広げられるが、その後両家の代表者が早世し名人位は大橋分家に渡ることになる。
三代大橋宗与
※画像はイメージです、実際の六世名人とは何の関係もありません。
大橋、伊藤両家の名人候補が相次いで亡くなったため1723年(享保8)大橋分家からの初の名人となる。同時に最年長(76歳)で襲名した名人でもあった。”中継ぎ”の襲名という印象が強いが本人も非常に焦っていた様子が見られる。 この当時名人となった者は自身の作品集(詰め将棋集)を将軍に献上する習慣(※献上図式)があったが宗与のそれは準備期間の短さもあってか不完全な問題も多く、あまり良い評価は得られていない。