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羽生-大山比較レポート3
4:全盛期 ~大山の驚異的なタイトル独占率
ここから二人のタイトル戦に関連する比較を行っていく。二人の80期到達までの期間に開きがあり同じ土俵に立たせることは難しいため、ここでは一つの指標としてタイトル獲得数の最も多かった10年間を「獲得全盛期」として切り取って比べることにする。
・大山の全盛期
1959~68年までが最多。この10年間に行われたタイトル戦は52回、そのうち大山の獲得回数は45回。独占率86.5%。その次の10年間はタイトル数64に対して獲得19、独占率は29.7%。
・羽生の全盛期
1992~2001年までが最多。この10年間で行われたタイトル戦73回、そのうち羽生の獲得は48回。独占率65.8%。次の10年間はタイトル数70に対し獲得29、独占率は41.4%。
【大山と羽生の全盛期タイトル獲得率】
※非常に読み取りにくいグラフが出来あがりました、ごめんなさい。
現代よりもタイトルが少ない時代に80期を獲得しているだけに、やはりと言うべきか大山の驚異的な独占率である。年間タイトル独占(3~5冠王)が6回。さらに52回のタイトル戦のうち、大山の登場回数は実に50回。大山から苦労してタイトルを奪っても翌年何食わぬ顔をして挑戦者として戻ってくるのだからたまったものではない。ちなみにその次の10年間はグッと下がって独占率は30%を切ったが、これはこの頃から次世代の大名人・中原誠が台頭してきたこと、また単純に年齢が50代に近づいたことなども理由として挙げられる。
羽生は独占率こそ65%と及ばないが獲得数は大山を上回る48回。
現代は棋戦が増えすぎたことが逆にネックとなることが多い。タイトル挑戦のチャンスも増えたが、勤続疲労により全ての棋戦を全力で戦おうとすると心身がもたないのである。そんな中95年に達成された七冠独占、また94~95年の2年間での獲得タイトル14個(94年までは棋聖戦は年2回開催)というのは今後も破られることのない記録だろう。またその次の10年間でも独占率41%と、こちらも大山を上回っている。
5:外的要因1 ~インフラと巨大化
二人の活躍した時代にはそれぞれ一長一短あり、ここも二人を同列で比較することを難しくしている。大山時代が現代と比べ最も劣っているのは社会的インフラだろう。東海道新幹線が開通したのは1964年、東京~大阪間の高速道路が全線開通するには1969年まで待たねばならず、全国各地で行われるタイトル戦は移動だけでも1日がかりだった。またエアコンなどもない時代である。夏場の対局などは室内に氷柱を置いて気持ちばかりの涼をとるようなこともあったという。この環境下で40代、50代となっても活躍した大山の体力は尋常ではない。
大山時代と比べると現代将棋はあらゆる面で環境が整っているが、逆にそれが自分の首をしめることもある。一つは組織の巨大化である。大山の活躍した1960年代、現役プロ棋士の数は平均して70名前後しかいなかった。その後奨励会の組織や3段リーグ戦などプロへの道が整備された結果、90年代にはプロ棋士は約140名にまで増えている。こうなると当然タイトル戦予選の競争率は上がる。
2つ目は若手棋士が中心となった研究会である。共同研究会が以前とくらべて一般的となったことにより、何か目新しい戦法・戦術が登場してもあっという間に対処法が発見されてしまう。さらにインターネットの発達がこれに加速をかけた。東京から大阪への情報の伝達が江戸時代であれば一週間、大山時代なら1~2日かかっていたものがリアルタイムで手に入るようになったのである。(この「情報爆発」の土壌を作ったのも他ならぬ羽生なのだが・・・)若手の研究によって将棋の序盤はガラリと変わり、この急激な変化について来られなかった旧来の棋士たちは軒並み追い落とされていくことになる。
【現役プロ棋士数の推移】
プロ入りへの道が整備されたためか、それまで微増だったものが70年代後半から急激に伸びている。2000年辺りからは定年する棋士もいるためか150人前後で安定しているが、それでも50年代と比べれば3倍近くに増えている計算になる。タイトル戦に対する棋士の競争率を計算すると50年代が倍率20倍前後。60~80年代はタイトル戦が増えたこともあり12~15倍。90年代後半~は20~22倍程度となる。50年代は棋士自体が少なかったため対策も立てやすい半面、タイトル戦自体が少ないので競争率も上がる。現代とどちらが得をしているかは不明である。