JAPANESE CHESS REPORT.

ホーム > 棋士 > 歴代名人4 > 【実力制歴代名人】

歴代名人4






塚田正夫

塚田正夫

※画像はイメージです。




 実力制第2代名人。33歳の時「10年無敗」と呼ばれた木村義雄を破り名人獲得、通算2期。名人戦において木村に勝ち越した唯一の棋士である。(6勝5敗、番勝負としては1勝1敗)

1950年に開始された九段戦で第3期から四連覇を達成して「永世九段」の称号を得る。
(第8期までは九段戦に優勝した者がスーパーシードの名人とタイトル戦を行うという変則ルールだった)

実力的には大山、升田と共に戦後の3強と言ってよい実力者だったはずなのだが、あまり話題になることがないのは他の2人のアクが強すぎるためだろうか。しかし地味な人物であったかといえばそんなことはなく、諸先輩からは「新人類」と称されるなど非常にユニークな人柄であったようだ。升田とは酒飲み仲間で親友と呼べる間柄であり、対局中も升田の繰り出す口撃を軽やかに捌いていたという。

1974年に将棋連盟会長に就任。後年には「名誉十段」を追贈される。




升田幸三

升田幸三

※画像はイメージです。




 名人にハンデを与えて勝った男。木村・大山と共に戦後の将棋界を代表する棋士。
「魅せる将棋」を大切にし、「新手一生」を掲げて数々の新手を編み出した。有名な新手には升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、居飛車穴熊などがある。現在ではその功績を記念して新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が設けられている。
1957年名人位獲得、同時に棋界初の全冠独占:三冠王達成。

戦争中に患った病気が原因でその全盛期は短く、晩年は休場も多かったが、最後まで最高位のA級を維持したまま引退した。以下エピソードや異名等。




「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」

「羽生善治は、将棋を指したい人は誰かと言う問いに”升田先生と指したい”と述べている」

「終戦直後、難癖をつけて将棋を禁止しようとしたGHQに代表として出向き、皮肉の利いた見事な反論を展開。担当者を感嘆させて見事に危機を救ってみせた」

「参院選に出馬を打診された際”本業に自信のあるものは政治家にはならない”と断った」







加藤一二三

加藤一二三

※画像はイメージです。




 14歳、中学生でプロデビュー。神武以来の天才(日本史始まって以来の天才)と評され、プロ生活50年を越えていまだ現役を続ける生きる伝説。18歳にしてA級八段に登りつめる。(ちなみに羽生は18歳の時五段)
20歳で名人挑戦の年少記録を作るも獲得には至らず、初めて名人になったのは1982年、40歳を過ぎてからだった。60代を過ぎるまでトップリーグのA級を維持。現在はC級所属ながら孫のような年代の若者達と真っ向渡りあっている。以下エピソード。



「実力制へ移行後に誕生した全ての名人と対局している」

「14歳8カ月でのプロデビューはいまだ破られていない最年少記録」

「八段までの昇段年少記録を全て持っている」

「ネット上では羽生よりも人気がある。愛称は”ひふみん”」

「奇抜な言動から変人と思われがちだが、実は早稲田大学卒のインテリである」

「”対局にだけ集中したい”との理由から昼食の出前を何年にも渡り同じものを食べ続ける癖があり、ふいに普段とは違うものを注文したときは将棋会館に衝撃が走る」

「20代を過ぎてからカトリックに入信。バチカンよりナイトの称号を授かっており、棋士であり騎士でもある(本人談)」

「駒を盤に力強く叩きつける癖があり、その拍子に香車を割ったことがある」

「対局中に集中の妨げになるという理由で、会場となった旅館の庭の滝を止めさせた」


・年度別成績
・その他各種記録









米長邦雄

米長邦雄

※画像はイメージです。




 加藤一二三、中原誠、内藤國雄らと共に大名人:大山康晴に立ち向かい、戦後の棋界を支えた要人。最高峰のA級リーグで8回優勝するなど実力はトップクラスであったが何故か長いあいだ名人になれなかった。

1993年、年齢的にこれが最後のチャンスと考えた米長は自分の弟子に弟子入りを志願。それまでの古い将棋観を棄てて最新の情報を取り入れ、自分の将棋の再構築をはかる。執念が実りこの年初の名人を獲得。49歳、最年長の名人は「中年の星」として話題になった。
(尚、名人はその翌年羽生善治に奪われるが、米長自身このことを予言していた)
現役引退後は日本将棋連盟の会長に就任。8年余りに及ぶ長期政権を築き将棋界をけん引した。平成24年12月永眠。以下エピソード。



「2005年から将棋連盟会長を務める。業績に関しては賛否両論あるが、一定の実績は残している」

「2012年、プロ棋士としてコンピュータ将棋ソフトと公式戦で対戦し、初の敗北を喫する。引退から10年経過していたことを差し引いても将棋関係者に与えた衝撃は大きかった」

「好色家として有名。若い頃は週4日、家に帰らないこともあったという」

「升田幸三から、”奴だけは会長にしてはダメだ”と言われたという伝説を持つ」

「下ネタが大好きで、宴会での裸踊り程度のことは話題にもならない」

「タイトル戦でストレート負けが決まった金沢ニューグランドホテルでは対局場からホテルの大浴場まで全裸で叫びながら疾走」

「対局後「悔しい!」と叫びながら将棋会館4階から放尿を試みたが、心ある棋士たちの体を張った制止により未遂に終わった」


など。危険人物である。


・年度別成績
・その他各種記録









佐藤康光

佐藤康光

※画像はイメージです。




 1987年プロ入り、1998年に名人獲得。いわゆる”羽生世代”の一人。島、羽生、森内と共同研究会「島研」のメンバーだった。折り目正しく、礼儀正しく、将棋が強く、気も強い。「プロの将棋指し」として思い浮かべるイメージ通りの人物。
しかし理知的な外見とは裏腹に指し回しは剛直。”多少の不利は腕力でねじ伏せる”と言われる力強い棋風と、1秒間に1億と3手読むと言われる深い読みが武器。以下エピソード。


「目隠し将棋が得意。アマチュア5人を同時に相手(佐藤のみ目隠し)をして全勝したこともある」

「1994年、免許を取り立ての頃に(栃木県で行われたタイトル戦帰りだった)羽生、森内を同乗させて帰路につき、夜の日光・いろは坂事件を起こす。それ以来3人で佐藤の車に乗ることはなかったという」

「誰もが予想もしなかった手や、普通の棋士なら一瞬考えるが本能的に有り得ないと判断する手順を繰り出すことが多く、しばしば升田幸三と比較される」


・年度別成績
・その他各種記録











-Contents-

・勝つことはえらいことだ:塚田正夫

・実力制四代名人:升田幸三

・神武以来の天才:加藤一二三

・われ敗れたり:米長邦雄

・いろは坂事件:佐藤康光

-将棋レポート-

HOME RECORD REPORT KISHI TRIBIA MOVIE LINK

Copyright 2012-13H.I.All Rights Reserved.