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羽生-大山比較レポート2



1:奨励会入会まで ~対照的な幼少時代

 大山康晴は1923年、現在の岡山県倉敷市に生まれる。5歳から将棋を始め、1935年に大阪に出るまでを過ごした。現代と比べれば娯楽の少ない時代、将棋といえば屋内での遊びの中でもメジャーなものだったはずである。大人を含めて周辺地域で将棋を指す相手には困らなかったことだろう。


 羽生善治は1970年、埼玉県所沢市生まれ。のち東京都八王子市へ移り住む。将棋は小学1年生の時、同級生から教わったという。この頃にはインドアで楽しめる娯楽も増えており、将棋よりもテレビゲームを選ぶ子供が圧倒的に多い時代となっていた。しかし大都会・東京ということもあり、また両親の理解もあり小学2年生から将棋道場に通い始め、大会にも出場するようになる。やはり対局相手には困らなかったようである。





2:奨励会時代 ~兄弟子とライバル

 1935年、大山は大阪の木見金治郎九段に弟子入りする。この当時はプロになるためには他のプロ棋士の内弟子として生活しながら修業するのが当然だった。この制度の最大のメリットは指す相手に困らないという一点に尽き、中でも大山は最高の環境に恵まれていたといえる。後に実力制4代名人・三冠王となる升田幸三が兄弟子としていたからである。この頃すでに二段だった升田に、最初大山は角落ちで全く歯が立たなかったという。その後も初段、四段、五段と順調に昇級していった大山の前には常に升田がいた。この頃の経験から5年、10年先を見すえた修行を行ったことが50代を過ぎてからの力になったと、大山は後に語っている。

また、現代のように最新技術の研究会など存在せず、自らの秘術を人に見せるなど問題外という時代ではあったが、かわいい弟弟子に頭を下げられて教えない兄弟子はいない。数々の革新的な戦術を編み出していた天才・升田から指導してもらっていたというのは当時としては最高の贅沢であっただろう。大山が四段、プロ棋士となったのは1940年、17歳の時である。




 一方の羽生、1982年に小学生名人となり、二上達也九段に弟子入りする。この頃には内弟子制度はほぼなくなっており、弟子入りといっても名目上のものであることが多い。この点が常に兄弟子と練習将棋を指すことが出来た大山との大きな違いである。反対に羽生は同年代のライバルに恵まれていた。後に「羽生世代」「チャイルドブランド」などと呼ばれる羽生と同世代の奨励会員達である。この中から後に名人のタイトルを獲得する者が羽生を含め4人、最高クラスのA級棋士となったものが8人おり、この世代は現在でも将棋界の中心として活躍している。

中でも島朗九段が中心となって活動していた研究会、通称「島研」は有名で、主催者の島朗を含めメンバーであった羽生善治、佐藤康光、森内俊之の4人全員が竜王のタイトル、さらに島を除く3人は名人にもなっている。彼らと影響しあい、周囲を引っ張り上げながら羽生は一気にプロへの階段を駆け上がって行った。





3:初タイトル獲得まで ~大山の不運

 羽生は1985年に15歳で四段に昇段、奨励会制度が始まって以来3人目の中学生プロとなり、1年目から抜群の成績を挙げていく。ファンの間で一気に名前が知れ渡ったのは88年、NHK将棋トーナメントの時である。当時18歳、学ランを着た若者がトーナメント戦で名人経験者4人を次々と破り初優勝。勢いそのままに翌89年、初タイトルの竜王を獲得する。19歳、史上最年少(当時)のタイトルホルダーとなる。



 大山は17歳でプロとなり、こちらも順調に勝ち星を増やしていったが、羽生と比べて大きなハンデが2つ存在する。1つ目は太平洋戦争である。戦争末期の44年に召集され終戦までの約2年間を、内地ではあったが兵隊として過ごすことになる。棋士として大切な若手の時期に知識や技術を蓄えることが出来なかったのである。

 2つ目は棋戦の数が少なかったこと。昭和初期まで家元制の「芸能」であった将棋が実力制の「興業」に変わったのは1930年代のことであり、大山がプロ入りしたのは正に黎明期と言える頃だった。このため当初タイトル戦と呼ばれるものは名人戦1つしか存在せず、「九段」「王将」が創設されて1951年にようやく3つになり、現在ある7つのタイトルが全てそろうには1983年まで待たなければならなかった。

羽生がプロ入りした頃には全てのタイトルがそろっていたことを考えればこれは大きなハンデである。可能性だけでいえば、羽生は2年目で6冠王(名人戦を除く)となることも出来たのだから。僅か2席のタイトルをプロ全員で争うという激しい競争を勝ち抜いて大山が獲得した初タイトルは1950年の「九段」(現在の竜王戦の前身)。27歳の時だった。



【大山・羽生の年度別成績一覧表】

羽生の年度別成績一覧 大山の年度別成績一覧



年間の対局数50局以上のものと勝率7割を超えるものは赤で表示した。大山も長年に渡り素晴らしい成績を残しているが、勝数、勝率共に羽生が圧倒している。


 大山が現役中に出場することの出来たタイトル棋戦は合計245回。その内予選優勝しタイトル挑戦者となったのが112回、獲得・防衛が合わせて80回。生涯でのタイトル獲得率は32.6%。また参考までに、初めてのタイトルを取った1950年から最後のタイトルとなった1981年までに限れば出場165回、獲得率は48.5%となる。


 羽生善治、2011年度終了時点で出場可能だったタイトル戦は193(※名人挑戦可能なA級まで最短で昇級したと仮定した場合の数字)タイトル戦登場106、獲得・防衛が80で獲得率は41.5%。


※尚、大山康晴氏の通算勝ち星は公式には1433勝781敗となっていますが、何度調査してもこの数値にしかならず、やむを得ずそのまま掲載しています、ご注意ください。


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