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羽生について語るときに森内の語ること



 あの日、森内俊之は思っていた。
 勝負の熱の中で、誰にも知られず、1人きりで。
「対戦相手と戦いながら自分とも戦っていました。非常に重いものを背負いながら...。自分が先になってしまっていいものなのかと」
 2007年6月29日。第65期名人戦7番勝負最終局。挑戦者・郷田真隆九段との最後の戦いの終盤、勝利を確信した。勝てば名人通算5期となり永世名人の資格を得る。通算4期で並ぶ羽生善治より先に将棋の歴史に自らの名を刻むことになるのだ。「木村(義雄14世名人)、大山(康晴15世名人)、中原(誠16世名人)、谷川(浩司17世名人)と来て、次の永世名人は羽生さんがなるんだろうなーと誰もが思っていて、私も思っていたんですけど、自分が先に5期目を取りそうになった時、なんて言うんでしょうか...葛藤がありました」 

 将棋界について知らない人に「将棋界にはとんでもないものがある」と声を大にして伝えたくなる時がある。常に最上のテーマとなるのは、森内と羽生のライバル関係である。
 共に1970年の秋に2週間も離れずに生まれ、小学4年生の時から世代の最高峰で戦ってきた。同期で奨励会に入り、10代半ばで棋士になり、10代後半からは伝説の「島研」で研鑽を積む。25歳で初めて戦った名人戦の舞台では既に8度も激突し、20代が全盛期であるはずの将棋界で43歳になった今も頂点に君臨している。そして、2人とも信じ難いほど美しい内面を持っていることも共通している。「巡り合わせですよね。たまたま自分の生まれた年にそんな人がいて、将棋の歴史で1、2を争うような棋士になったわけですから。偶然に感謝しています。自分は周りに影響を受けやすいので、羽生さんがいたことで人生は変わったと思うんです。進むべき方向も。本当に」

 あらゆる競技、世界を見渡しても、小学生の頃から40代まで最高峰で雌雄を決している関係など存在しない。そんな尊さについてこちらが熱弁すると、森内は謙遜する。「ライバルとは思っていません。ライバルという感覚はないんです。羽生さんは将棋界に自分自身で新しい道を生み出して切り拓いて来た人。私は付いていっただけ。だからライバルというのとは違うと思いますし、羽生さんのライバルは誰?と考えてもちょっと思いつかない」
 2人が出会ったのは81年1月6日、東京新宿の小田急百貨店で行われた将棋大会だった。森内は予選で広島カープのキャップをかぶった少年と対局する。他でもない羽生だった。「小柄で見た目は強そうな感じはしなかったのですが、実際に指してみるとものすごく強いことが分かりました」。終始押された将棋。粘りに粘った森内は勝利を拾うが、準決勝での再戦では敗退。羽生は優勝をさらっていった。「その後、なんとなく気になる存在になっていきまして、彼の成績を気にしたり、同じ大会に出るようになりました」。会場では「羽生君」「森内君」と声を掛け合う仲に。まだ10歳だ。さすがに話題は遊びとかテレビとか...。「いや、将棋の具体的な手の内容のことが多かったんじゃないでしょうか」

 ある時、羽生が住む八王子と森内の自宅に近い川崎で同じ日に将棋大会が開かれることになった。「羽生さんが出るなら八王子まで行こうかなと思ったんですけど、結局は行かなくて」。すると、反対に羽生が川崎までやってきた。森内と戦うために。「結局、優勝したのは羽生さんでした」

   82年春の小学生名人戦でも羽生が優勝。森内は3位だった。当時の表彰式の写真には、解説で訪れていた19歳の谷川浩司ととともに幼い2人が写っている。10年も経たないうちに、小さな2人が同じフレームの中の棋界のプリンスを脅かすようになるなんて誰も思っていなかっただろう。

 同年、奨励会に同期入会。昇級昇段を重ね、羽生は15歳で、森内は16歳で棋士となる。「一緒に旅行に行ったりもしました。若い頃は無理を言って付き合わせてしまったりして羽生さんを困らせてしまったこともあったのかなと思います。彼は距離感の取り方がうまいので、合わせてもらったのかなあと。今でも個人的なことを聞くのは悪いような気がして雑談なども差し障りのない範囲で。考えを尋ねたりすると、探っているようで申し訳なくなります」

 初代竜王となる島朗が主宰した「島研」では、やはり後に名人となる同世代の佐藤康光とともに将棋の新しい可能性を探究した。「切磋琢磨しながらやってきました。自分たちの若い頃は手っ取り早く強くなるような要領の良いやり方がなかったので、時間を掛けて本当の力になるような勉強をしてきたことが今になって役立っています。今は便利になったので、ある程度までは効率よく力を伸ばすことが出来るようになりました。でも、苦労しないのと身に付かない部分もある。良い時代に勉強が出来たと思います」

 それから、2人の間に差が生まれていく。羽生は19歳で竜王となり、25歳で7冠制覇。将棋の歴史を次々と塗り替えるスーパースターになっていくが、森内は活躍こそすれ、タイトルまで手が届かなかった。「羽生さんが晴れがましい活躍をして、自分はあと一歩の壁をなかなか越えられなかった頃はいろいろと考えさせられました。同い年で同期なので遠慮はなかったですけど、実績的には大差が付いてしまいましたし、尊敬もしていました。でも将棋を1対1で指す時は肩書とかは関係ないので、相手が7冠だろうが何だろうが勝つ時は勝ちますので、別に遠慮する必要はないので。将棋の良いところだと思います」

 相手が7冠だろうが何だろうが勝つ時は勝つ―。穏やかで控え目な口調の中に、森内は時折、強烈なプライドをのぞかせた。
「相手を打ち負かそうという感情は薄いと思います。でも、将棋は勝つか負けるかしかないので、負けないためには勝つしかないんですよね。負けるのは嫌なんです。自分を否定されるような感覚を持ちますので。でも、もっと嫌なのは出来るはずのことが出来ないこと。出来るか出来ないか、というところで出来ないのは仕方がないんですけど、当然出来るところで間違えたりミスをするのは嫌ですね。結局、負けることに結び付いていきますし」
 羽生に劣等感を抱いたり、同時代に生まれたことを不運に思った時期もあると言う。ただ、森内は自分とは何か、自分の長所とは何かを見つめていくことで、壁を突破していく。「人は変わることは出来ないので、自分の持っていることを最大限に発揮していきたいと思いました。羽生さんだから『直感の7割は正しい』んですけど、自分は羽生さんみたいにパッといい手は浮かばないので、時間を掛けて考えていくやり方しかなかった。自分は無駄を積み重ねてきたようなタイプですけど、形にすることが出来て良かったなあと思います。世の中には当たり前だと思われていることが多くあると思いますが、当たり前になるとは限らないということを実際に示せたとは思っています。無理そうだと思うことでも出来ることはあると知っていただければ、自分のやって来たことが役立つのかなと」
「将棋は今になっても奥が深いし、次から次に自分の分からないことを発見することが楽しいなと思うことはあります。ここまで来て新しいものが見つかっていくので不思議な気持ちもしますし、すごいなーって思ったりもします。まだまだ可能性を感じます」

   4月8日、第72期名人戦7番勝負が開幕する。昨秋の竜王戦で10連覇を目指した渡辺明に4勝1敗で完勝し「竜王・名人」となった森内に挑むのは、33年前の冬の日に小田急百貨店でカープの帽子をかぶっていた少年である。4年連続9回目のゴールデンカードだ。「すごいのひと言ですね。難敵揃いのA級ではひとつ勝つのがすごく難しいので、全勝とか1敗とかで3期連続挑戦というのはちょっと信じられない。どうしたらそんなに勝てるのかなと思いますけど」「昔の大山―升田戦も『またか』と言われていたようですが、終わってみれば『淋しい』と言われるようになった。自分たちも9回目ということで最後の方に近付いてきているのは間違いありませんので、いつか見られたくなった時に『もっと見たかった』と言われるようにしたいです」
 羽生が挑戦者となることに脅威を感じるか、と問うと森内は言った。「別に感じません。随分と戦ってきていますし。同じリーグにいて対抗するのは大変ですけど、名人戦では直接戦えるわけですし。トータルでは負け越していますけど、名人戦に限って言えば負けているわけでもないので」

 「棋士」と呼ばれる160人もの天才たちがいて、策略や技術は日々進化して、25年前の彼らがそうだったように新しい才能も次々と生まれている。誰もがあらゆる力を駆使して勝つことを目指している。ただ、現実として森内俊之と羽生善治は43歳になった今も頂点にいるのだ。なぜなのだろう。誰に聞いても答えは出ない。ただ、あまりの尊さに言葉を失うだけだ。将棋盤を挟む2人の姿に、心を震わせるだけだ。
 和室での1時間を超える取材に、森内は正座姿で応じてくれていた。別れ際、ふと思い出したように笑って言った。「30年経っても同じ事をしているんですから、自分でも驚きですね」と。



2014/3/30

転載元:いささか私的すぎる取材後記





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