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戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段
昭和の名棋士である丸田祐三(まるた・ゆうぞう)九段は、今年3月で94歳を迎えた。
将棋界史上の最高齢記録を現在更新中である丸田九段の若かりし日々を、その三番弟子にあたる中野雅文さんが活写する。
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先生の年代を語るとき、関わりが出てくるのが戦争である。6年有余の戦地生活から帰還した昭和21年初頭、浅草の家は空襲で焼かれて見る影もなく、両親を亡くしたことを知ったときには「神も仏もない」と、天を仰いだ。
癒やしようのない心の傷が残った。棋界入り(奨励会6級)したのは数えで17歳、昭和11年のことである。師匠平野信助七段の「2~3級でも問題ないが、6級なら無試験で入会できるから」との意向であった。
入会間もないころ記録係を務めたのが、後の大名人木村義雄八段の対局。ちなみに木村が実力制初代名人になるのは翌年のこと。某七段との香落ち戦。相手が厠(かわや)に席をはずすと、丸田青年に対し解説が始まった。
「坊やちゃん、香落ちの上手はね、この形がいいんだよ」と、上手3四銀型を奨励した後(当時の下手の戦法は5七銀・4七銀と組む通称二枚銀が定番)、メインテーマに入った。
「それからね(木村美濃の8三歩に触れながら)ココは突かないんだ。おじさんが後でココに(空いている8四の地点を指さしながら)、桂馬を打つからね」と締めくくった。
驚いたことには、丸田青年の目の前で、木村の解説どおりに進行していくのであった。この体験が主要因ではないのだろうが、その後先生は奨励会の香落ち下手番では、相振り飛車オンリーで通した。理由を尋ねたことがあるのだが“端攻めがないから”であった。
戦争により癒やしがたい心の傷を負った先生だが、こと将棋に関しては順調だった。戦後の混乱の中、特例の四段でスタートを切った順位戦を、まず12勝2敗と断トツの成績で切り抜け、当時の勝ち星点数加算制度で(あの有名な)三段跳びの七段に。さらに翌年も昇格を決め、四段から2年で八段昇進という快挙をなしとげた。その他、会長や理事職も長期にわたり、この功績には
「とても師匠を越えられないね」は、弟子一同の合言葉でもあった。
2013/8/15