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計算する知性といかにつきあうか――将棋電王戦からみる人間とコンピュータの近未来③



第三局: コンピュータはあきらめない

第三局は棋士の「線の大局観」とソフトの「点の大局観」が正面から激突する熱戦になった。先手は関西の俊英・船江恒平五段(25)、後手はコンピュータ将棋選手権三位の「ツツカナ」。序盤、船江はツツカナの無理ぎみの攻めを丁寧に抑えこんで攻勢に出るが、ツツカナも粘り強く守って簡単には土俵を割らない。それでも船江優勢で迎えた94手目、ツツカナが奇妙な動きを見せる。銀をタダで捨てる△6六銀。この一見して意味のわからない手に船江は激しく動揺する。彼は自戦記のなかで次のように振りかえっている。

受け切った。そう思った次の瞬間、信じられない手が飛んできた。6六銀。終盤も終盤、ド急所の局面で読みにない一手を指され、私は本能的にやられたと思った。緊張、不安、焦り、色んな感情が心の中で激しく渦巻いている。私は暴れる心を押さえつけ、局面に向かう。すると不思議なことが起こった。いくら考えても△6六銀はタダにしか見えない。何度も何度も確認し、私は▲6六同龍と取った。

船江が言うように6六銀は本当に「タダ」だった。ツツカナは、銀を犠牲に自分の玉を安全にして相手の玉を寄せることを狙っていたが、実際には一手遅く、寄せにでた時点で自玉が詰んでしまう。▲6六同龍の時点で再計算したツツカナは一転して△4二歩と守りを固めた。対局後の検討では「▲6六同龍と銀を取るのではなく、▲2七角△5五銀▲5七角で先手勝ち」という結論が出ている。△6六銀の「わからなさ」に激しく動揺した船江は、結果的に▲6六同龍というやや安全策ともいえる手を選んだのだ。再び終盤の入り口に戻った局面において優勢を確信した船江は攻撃陣を立て直し、急所の端攻めに出る。だが、この時すでに船江の思考には微妙な狂いが生じていた。彼は次のように述べている。

思えばこの辺りから私の精神は不安定な状態になっていたのかもしれない。[……]手番が回り▲1六歩。待ちにまった▲1六歩。そして私は思ってしまった。勝ちになったんじゃないか。いや間違いなく勝てる。遂に私はパンドラの箱を開けてしまった。実際にこの局面は本局で私が最も勝ちに近づいたところだったと思う。だが私の精神のタガは外れてしまった[……]早く勝って、楽になりたい。その誘惑に私は負けてしまったのだ。

決着を焦った船江は悪手を繰り返す。優勢だったはずの局面はもはや収拾がつかなくなり、ツツカナが着実な反攻に出る。184手の長手数に及んだ戦いは、船江の敗北に終わった。

△6六銀から△4二歩の進行は、もしプロ棋士が指したのであれば屈辱的な方針転換であり、大きな心理的なダメージが残っただろう。だが、局面毎に最善手を探すソフトにとって△4二歩は当然の一手であり、むしろ心理的なダメージを受けたのは船江の方だった。△6六銀自体は電王戦でソフトが指した全ての手のなかでも最大級のミスである。だが△4二歩と組み合わさって船江の「線の大局観」を狂わしていった点で、立派に「勝負手」として成立している。棋士の側から見ればこれほど厄介なことはない。ミスをした側が全く動揺せず最善を尽くしてくるのに対して、自分には勝機を掴んだことで焦りが生じるからだ。こうしたソフトの特徴は、人間から見れば「粘り強い」、「決して諦めない」というプラスの価値を持つ。第一局で勝利した阿部光瑠もまた、次のように述べている。

人間は、自分が不利になりそうな変化は怖くて、読みたくないから、もっと安全な道を行こうとしますよね。でも、コンピュータは怖がらずにちゃんと読んで、踏み込んでくる。強いはずですよ。怖がらない、疲れない、勝ちたいと思わない、ボコボコにされても最後まであきらめない。これはみんな、本当は人間の棋士にとって必要なことなのだとわかりました。

阿部が言うように、ソフトが持つ独特の「粘り強さ」がプロ棋士にとっても必要な要素になっていく可能性は十分にある。現代将棋では、棋譜データベースに基づく定跡整備の高速化によって事前研究の精度が大きなウェイトを占めるようになっており、戦型によっては最終盤の直前までお互い決まった手を指し続けるしかないことさえある。いわば序中盤の「アルゴリズム化」が進む現状においては、局面を流れで捉える能力だけでなく、事前研究の漏れや想定外の応手によって局面が一変した際に頭を切り替え手持ちの情報を当てはめ直して最善を尽くすことが重要になっているのだ。ソフトとの戦いが示した「何度でもリセットされうるゲームを戦いぬく技術と精神」の重要性は、千日手(引き分け再戦)を厭わずに高い勝率を上げた永瀬拓矢六段など、一部の若手棋士によってすでに体現されつつあるようにも思われる。

第四局: 仲間想いのおっさん

棋士側の一勝二敗で迎えた第4局、コンピュータ将棋選手権二位のPuellaαとベテラン塚田泰明九段(48)の戦いは稀にみる泥試合となった。

プロ棋戦でも頻繁に現れる相矢倉の定跡型に進んだ本局、先手Puellaαの鋭い攻めに防戦一方となった後手塚田は飛車を犠牲にして入玉(敵陣三段目以内に王を進めて安全にすること)を試みる。事前に貸し出されたPuellaαの前バージョンとの対局を通して、塚田はこのソフトが自ら入玉を試みないことを発見しており、自分だけが入玉し、安全を確保してから相手玉に攻めかかることを狙っていた。

だが塚田の目論見はもろくも崩れる。Puellaαは古いバージョンとは違って入玉に対応するプログラムを備えていたのだ。相手の入玉を抑える準備を全くしていなかった塚田陣を先手玉はするすると切り裂き、あっさりと入玉を決めた。双方の王が入玉して詰みがなくなると、大駒(飛車角)を五点、王と大駒を除いた小駒を一点として双方の駒を数え、より点の多い方が勝利する点数勝負となる。

入玉するために大駒を犠牲にした塚田の持ち点はPuellaαに遠く及ばない。棋士同士の対局であればすぐにでも後手が投了しそうな状況にも関わらず、「団体戦で負け越すわけにはいかない」という強い想いを秘めていた塚田はあきらめずに相手の大駒を追いまわす。通常の将棋とは似て非なるものとなった盤面を前にして、解説を務めた木村一基八段をはじめ見守る多くの棋士が辟易し、塚田の潔い投了を望んだ。河口俊彦元七段は、立会人の神谷広志七段(塚田と同年にプロデビュー)が陣取る控室の様子を次のように振りかえる。

塚田君が投げないものだから、指すたびに惨めになって行く。神谷は「ああひどい」と引っくり返った。私が「対局室に行って、対局を止めたらどう」と神谷君に言った。起き上った神谷君は「256手まで指す、という規定があります」と言ったが、顔は辛そうだ。さらに私が「立会人が止めた例もあるよ」と言うと、先崎君も、彼らしくない穏やかな口調で、ストップを促した。神谷君はうつむき「規定は規定です」と動かない。

だが局面は予想外の展開を見せる。入玉を確定させたPuellaαが「と金」作りを優先させる手を指し始めたのである。歩を成って「と金」にすることは通常の将棋では有効だが、全ての小駒に一点の価値しかないこの状況では意味がない。Puellaαは入玉には対応していたが、通常の評価関数と点数勝負の関連づけに不備があったのだ。相手の大駒を追い詰め、指をおりながら必死に点数を数える塚田に対して、黙々と歩を成るPuellaα。互いの目指すゴールがすれ違うまま延々と80手ほどの応酬が続き、もはや何を見ているのかわからなくなった解説会場や生中継サイトの将棋ファンから奇妙な哄笑が湧きおこるなか、塚田が基準となる24点を獲得し、双方の同意のもと立会人が引き分け(持将棋)の裁定を下した。

将棋界では、互いの技術を駆使してギリギリの攻防を繰り広げわずかな差で勝負が決まる対局が「良い将棋」と考えられている。だからこそ、プロの基準から見て挽回できない大差がついた場合は即座に潔く投了すべきだとされる。団体戦にかける想いのために見込みのない点数勝負を投げずに戦った塚田は、こうした将棋観からすれば「惨め」であり、棋士失格と言われても仕方がない。だが、もはや棋士と言うよりただの「仲間想いのおっさん」としてソフトに対峙し、想定外の状況が次々と現れるなか最善を尽くして引き分けに持ち込んだ塚田の姿は、観戦した多くの人々の心を動かした。電王戦全五局を通して、技術はともかく「何度でもリセットされうるゲームを戦いぬく精神」をもっとも強く発揮してみせたのは、実はこの「仲間想いのおっさん」だったのかもしれない。

これまで人間が独占していた相互行為の場に知能機械が参入していくことは、単に既存の行為のあり方が疑われるだけでなく、それを支えてきた倫理(~すべき)が疑われる契機ともなる。見守る棋士たちが塚田の「惨め」な姿に耐えられなくなっていったように、既存の価値基準の動揺には激しい痛みが伴う。だが、図らずも棋士の領分を踏みこえながら戦いぬいた塚田の姿は、自明の前提が崩れていく痛みの只中でこそ人間的な倫理に守られてきた領域の外で生きぬく道筋が開けることを示しているのではないだろうか。言い換えればそれは、世界を形式的な論理によって捉える「計算する知性」と世界を線状の物語によって捉える「人間的な知性」のはざまで、朦朧とする頭と思うように動かない身体を抱えながら何かを掴みとっていく「病人の知性」が育まれることの可能性である。



2014/3/29



転載元:「久保明教 / テクノロジーの人類学」





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